窓の外は、鬱陶しいほどの雨だった。
宇宙に雨も何もないものだが、ここ春雨のドックがある惑星は、あいにく梅雨のような湿った季節の真っ只中らしい。
窓ガラスを叩く水滴の音が、書類をめくる阿伏兎の溜息と重なって、俺の鼓膜を不愉快に揺らす。

「……ねえ、阿伏兎。暇なんだけど」
「暇じゃねーよ団長。あんたが溜め込んだ報告書の山、これ今日中に片付けないと上からまた文句言われるんだわ」
「殺しちゃえばいいじゃない、そんな奴ら」
「はいはい、そうですね。でも殺したら余計に面倒なことになるのが大人の社会ってもんなの。ほら、ハンコ押して」

俺はソファに深く沈み込みながら、天井を仰いだ。
退屈だ。血湧き肉躍る戦場もないし、美味しいご飯の時間でもない。
こんな日は、思考がどうしてもあっち側――俺の可愛い婚約者の方へと流れていってしまう。

「阿伏兎、あのさ」
「あ? 今度は何ですか。腹減ったならそこに地球産の煎餅があるから食っとけ」
「違うよ。……彗羽ちゃんのことなんだけど」

俺がそう呟くと、阿伏兎は持っていたペンをピタリと止めた。そして、この世の終わりのような顔をして俺を見る。
「……また始まった。俺の胃薬、どこやったっけ」
「聞いてよ。あの子、最近ますます可愛くなったと思わない?」
「はいはい、可愛い可愛い。宇宙一可愛いですよ。で、今回は何? 寝癖が芸術的だったとか、くしゃみが小動物みたいだったとか、そういう話?」

阿伏兎は呆れながらも、ちゃんと聞く体制に入っている。優秀な副官だね。
俺はクッションを抱きかかえながら、ふふ、と笑った。

「あの子さ、泣くんだよ」
「はあ? そりゃ生き物だ、泣くこともあるだろ。……まさか団長、泣かしたんじゃねーだろうな。彗羽嬢ちゃんを泣かせたら、春雨の半分くらい敵に回すことになるぞ」
「違うって。俺が泣かすわけないでしょ」

俺は、弱者が嫌いだ。
メソメソと泣いて命乞いをするような輩を見ると、虫唾が走る。涙なんてものは、己の無力さを垂れ流すだけの無意味な体液だと思っていた。
でも、彗羽ちゃんは違う。

「この前、一緒に映画観たんだよ。地球の、なんか犬が死んじゃうやつ。そうしたらさ、隣で『うぅ……』って変な音がするから見たら、ボロボロ泣いてるの」
「……感受性が豊かでいいことじゃねーか」
「あの綺麗な緑色の目から、真珠みたいな粒がポロポロ落ちて、鼻の頭を真っ赤にしてさ。必死に声を殺そうとしてるんだけど、肩が震えてるわけ。……見てたら、なんかこう、ゾクゾクした」
「おい、表現が危ねーよ。サディスト全開かよ」

阿伏兎が引いているのが分かるけど、構わず続ける。
「違うよ。いじめたくなったわけじゃない。ただ、普段あんなに強くて、冷徹に敵を殺す黒い彗星がさ、たかが映画の犬で泣いてるんだよ? その無防備さが、たまらなく愛おしいって話」

俺は自分の指先を見つめる。
あの時、彼女の頬を伝う涙を指で拭って舐めたら、しょっぱくて、でも甘かった気がした。
俺の前だけで見せる、弱さ。それは特権だ。

「それにさ、食べる時も可愛いよね」
「あんたも大概食うけどな」
「俺とは違うの。彗羽ちゃんはね、こう、リスみたいに頬袋に溜め込んで食べるの。蜜瓜(メロン)パンとか食べてる時、口の周りにクリームつけてても気付かないんだよ? 19歳にもなって」
「……普通なら『行儀が悪い』で済む話なんですがね」
「俺がやったら怒るくせに」
「あんたの場合は量が災害レベルだからだろ!」

阿伏兎が吠えるが、俺の耳には届かない。
脳裏には、先日の朝食の風景が浮かんでいる。
寝起きでぼんやりしたまま、俺が作ったオムレツを口に運び、熱かったのか「はふはふ」と小さな舌を出して冷ましていた姿。
あれを見た瞬間、俺は危うくテーブルをひっくり返して彼女を抱き締めるところだった。理性が働いてよかった。

「あと、寝る時。あの子、自分のことをウサギだと思ってるのかな」
「夜兎だからな」
「違うよ、そういう意味じゃなくて。……俺の布団の中に潜り込んでくる時、頭から突っ込んでくるの。で、丸まって、俺の匂いを嗅いで安心して寝るわけ」
「……ご馳走様です。もう胸焼けしてきた」

阿伏兎が机に突っ伏した。
「団長、あんたねぇ……普段戦場じゃ修羅の如く暴れ回って、笑顔で人の首ねじ切るくせに、なんで彗羽嬢ちゃんのことになるとそんなにデレデレなんだよ。温度差で風邪引くわ」

「仕方ないじゃない。彗羽ちゃんは特別なんだから」
俺は立ち上がった。
窓の外の雨はまだ止まないけれど、気分は悪くない。むしろ、早くあの暖かくて甘い匂いのする場所へ帰りたくなってきた。

「阿伏兎、あとは任せたよ」
「はあ!? まだ書類が!」
「雨の日は古傷が痛むから早退する。……嘘だけど」
「堂々と嘘ついたなオイ! 待てコラ神威!」

阿伏兎の制止を笑顔で振り切り、俺は執務室の窓を開けた。
ここからなら、彼女の星艦『リリアナ号』が停泊しているドックまで一飛びだ。
雨に濡れるのは好きじゃないけど、その後に彼女にタオルで拭いてもらうのは悪くない。

***

『リリアナ号』のハッチを開けると、ふわりと甘い香りがした。
星辰花(ステラリア)の清冽な香りと、彼女が好む甘いお菓子の匂いが混ざった、俺の帰る場所の匂い。

「ただいまー」
声をかけても返事がない。
リビングへ向かうと、案の定だった。
窓際の大きなソファの上、大量のウサギのぬいぐるみに埋もれるようにして、黒髪の少女が眠っている。
彼女自身が作ったという、歪な形の黒いウサギを抱きしめて、規則正しい寝息を立てていた。

俺は足音を消して近づき、その寝顔を覗き込む。
長い睫毛が震えている。口元が少し緩んでいて、無防備そのものだ。
最強の夜兎の血を引き、霖安の王族の末裔であり、宇宙を震撼させる歌姫。
そんな肩書きのすべてを脱ぎ捨てて、今はただの「俺の女の子」としてここにいる。

「……んぅ……」
俺が濡れた髪から滴る水滴を気にせず、その頬を指でつつくと、彼女は眉をひそめて身じろぎした。
ゆっくりと、緑色の瞳が開く。

「……かむい、くん……?」
寝ぼけた声。焦点が合っていない瞳が、俺を捉えてふにゃりと細められた。

「おかえりなさい……早かった、ね……」
「うん。彗羽ちゃんに会いたくて、サボってきた」
「ふふ、阿伏兎さん、また胃薬飲んでるよ、きっと……」

彼女は身体を起こそうとして、ふと俺が濡れていることに気付いたようだ。
慌ててソファから降りようとする。
「雨、降ってたの? 濡れちゃってるじゃない……タオル、持ってくるね」

「いいよ、そのままで」
俺は彼女の手首を掴んで、そのままソファへと押し倒した——いや、正確には、彼女が作ったぬいぐるみの山の中へ引きずり込んだ。
「きゃっ!?」
「ちょっと冷たいけど、我慢してね」
「もう……神威君のいじわる。冷たいよぉ」

文句を言いながらも、彼女は拒絶しない。
それどころか、俺の背中に腕を回して、ぎゅっとしがみついてくる。
彼女の体温が、雨で冷えた俺の体をじんわりと溶かしていくようだ。
これが、俺の欲しかったもの。

「……神威君」
「ん?」
「重い」
「愛の重さだと思って耐えて」
「……バカ」

彼女は少し顔を赤くして、俺の胸元に顔を埋めた。
ああ、やっぱり。
泣いても、食べても、寝てても、怒っても。
俺の婚約者は、どうしようもなく可愛い。

「ねえ、彗羽ちゃん」
「なあに?」
「晩ご飯、蜜瓜(メロン)パンでもいいよ」
「……! 本当!? 神威君大好き!」

単純で、愛おしい猛毒。
俺はこの毒に侵されたまま、一生を終えるのも悪くないなと、彼女の柔らかな髪にキスを落としながら思った。